2008年06月25日

情報過多過多、僕たちは魔法使いでアルジャーノンだったらしい。

「ベストセラーの構造」を読了。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480026878/mixi02-22/
ちょっと前に、NHKのクローズアップ現代でランキングで売れ行きがかなり左右される云々を見た後なので、感慨も一頻り。
100万部も売れるという「異常な事態」をあれは特別として切り捨てずに、そうなるのはなぜか?と云うところに視点を置いた評論。
度々言われている、総中流社会の日本。
上流であれば、下流を押さえつけ、下流であれば上昇志向だったり反骨でもって上を睨みつける。
だが中流、暮らしを維持する為に誰かの犠牲を受け止めてはいないし、良い暮らしをする為に必死になったりしない、中流。
中流の定義ってなんだろう?
収入か?だとしたらそんなものはたんなる数字でしかない。
脱線しかかるので、本中心の話に。

どうやら好まれるのは、知的に振舞える本だということ。
最近だとバカの壁とか日本の品格だとか、タイトルだけであーと思える。
そこには、認知心理学とか歴史とか宗教学とか哲学などの予備知識が必要な本は座らない。
作者は著名な大学教授であり、その人がわざわざ書きたくて書いたものを、さらっと読んで尚且つ感心して、しかも自分の意見も言えちゃうオレさまって、ちょっとしたもんだろ?的な。
わかるように書かれたものである事をわざわざ指摘する人は嫌われる。
養老先生はおじいちゃんだから、たぶん嫌われない。
老人は子供と同じく許されるものだから。
40過ぎくらいの、ばりばり一線の学者が書いたら多分嫌われる。
昔からの本来の意味の学問、知識、文学はベストセラーにはなりえない。

雑学バヤリである。
雑学は知らなくても自己を否定される事にはならない知識だから流行る。
本当に知らなければいけない知識(職業上などの)は、雑学としては流行るはずもない。
雑学を口の端に乗せるという行為は、話し手は自分は知識を得る為にちょっとした配慮を持って生活しているという自尊心を満たし、聞き手はその雑学を知らなくても、話し手は聞き手である自分に話す為にちょっとした配慮をして話題を仕入れている、自分はそういう少しだけ特別な存在なのだとこれまた自尊心を満たされる。
雑学とは、話し手聞き手双方ともほぼ関係ないところについての情報であるからいいのだ。
知ってたところで、ちょっとしたもの。
知らなくても、そんなもの。
サプリメントとしての情報、知識。
読まなくても別に変わらないが、読めばちょっとプラスになる本。

本書の中では、ゴシップと中流との係わりなど述べられていて、それらは若い芥川賞作家が何故持て囃されるかなど、とても25年前に書かれた内容とは思えない。
というか、変わってないのだなマスコミは(笑)
なんとか王子がモテルのは、おばさんたちにとっては、圧倒的に「人生経験」という、恣意的に取得したわけではないスキルによって優位であるから、安心してキャーキャーいえるのだ。
保険がある。いつでも優位に立てるから、ファンという立場に身をやつせる。
これは、マスコミを通しての様々な事象に当てはまる。
エンタの神様の流行芸人。
彼らは人気者になりつつも、いつも「お客さん」に飽きられはしないかと怯えていると、画面に出て話す。
みている「お客さん」は、飽きればいつでも捨てられるという優位にあると信じているからこそ、安心してくだらないと思いつつも乗っかれたりするのだろう。
おばかキャラが流行るというもの、考えてみれば人権問題とかだれも言わないのか?それはTVだから?
そのおばかに出される問題も、実際には別に答えられなくてもさほど実生活で不自由するものは殆どない。
大概が学校で習ったまま、使い道がなくなってしまっているものである。
それは、オトナがやるからまだ笑えるのであって、問題が解けない相手をおばかと呼んではやし立てる行為を、子供たちが真似しないとは限らないだろうに。
日本語は便利である。
ばかにおをつけただけで丸くなった気にさせる。
だが、実際のところは、単に侮蔑しているだけである。
しかし、公の前でわざと侮蔑するというカタルシスが笑いを生み、それを手法とし生業とする芸人であり、その舞台であるTVの中だから、ぎりぎり成り立つのだ。
そのことを、わざわざ放映前に知らせるTVは無いだろう。
「おばかキャラで人気者になってるんだからいいじゃない」
と、言うのは簡単だし、当人たちもそういうだろう。
それは彼らが覚悟しているからであり、本来なら拒否する権利も当然あるのだ。
TVの中でバカと呼ばれ、そう映っているからといって、それが現実であるという保障はどこにもない。
アホの坂田師匠は舞台を降りれば超ダンディーであるように。
TVの番組と現実は違うということ。

本書のなかでも、虚構の現実化はとても苦手だが、現実の虚構化には偏って優れている社会だと述べられている。
戦争の映像を見て、世界が抱えている問題を自分の物だとしては受け入れ難いが、目の前で起こった事故をまるで映画みたいだとあっさり言えてしまう社会なのだろうか、今は。
全てがイメージ化される社会。
そのモロさをなんとなく感じてるから、本当の自分探しにやたら魅かれたりスピリチュアルにはまったりするのだろうか。
本当の自分とは、中流である一億分の数千万の中にはいない、一分の一の自分であろう。
社会、自分以外の全てのものに立ち向かい対話しなんとか折り合いをつけねばならない、等身大の自分。
学歴とかもろもろのラベルに帰属できない素の存在。
それはとても無防備である。
無防備の独りである自分に対し、あらゆる武器を備えた他者が存在し構築する社会。
その距離感を掴めない掴ませない病理が、この社会にはあるのではないか?
そして、一分の一の恐怖でなく、一億分の数千万に帰属するために、安心する為に、100万部を超えるベストセラー人々はすがるのでは無いだろか?
というお話だと理解しましたが、実際読んでみて。
丁度昨日の深夜、フジで「放送禁止」を流してましたので見ました。

擬似ドキュメンタリーで今度映画化するらしい。
これのパイロット版だかのかごめかごめの謎を追う話は面白かった。
このシリーズの骨子は、事実の断片を積み重ねても、その終着点が必ずしも真実にはたどり着かないというもの。
事実、というのがクセモノで、揺るがざるものではなく、ちょっとした事で変わってしまうものだったりします。
例えば写真、これは場面をそのまま写したもので、映像の改ざんが無い限りは、事実をそのまま伝えるものだと思われているが、たまにバラエティーでもやるように、キャプションや音楽のつけ方によって、受ける印象が変わってしまい、場合によっては全く逆の受け取られ方もしてしまう。
これが映像のパワーだったりするんですが、まずはその前段階から。

グーテンベルグの輪転機によって世界は変わった。
と、言われてます。
それまでは、本から伝わる知識、情報は限られた階層で独占され、それにより収入やらに差がついたわけで。
種まきに適した時期を知ってるかどうかで収穫量も変わってくる的な。
それよりも更に以前、字が読めない者にとって、と云うよりは読めない文字は呪文と言いますか、そのなんだかわからない”もにゃもにゃ模様”で、意思を知識を経験を伝え合う行為は、魔法以外の何者でもないわけです。
本来なら消えてしまう言葉を世界に繋ぎとめる文字は、呪文なんですな。
こうして動物としての人間の経験は、言葉で伝える範囲を超えて、文字にする事により広範にそして長く伝わることになった上に、さらに印刷コストの低減でもっと拡がると。
口伝えだけじゃ300年前のこととかなかなか伝わらないし、下手すると隣町の事だって怪しい。
文字の獲得により時間を越え、印刷技術により距離を越えて、我々は「知る」事が出来るようになったわけです。
で、それが他の動物と人間との分かれ目と言いますか、違いの一つ。

ふまえて多分、人間はまだ輪転機開発以降のマスメディアと言うものを、ちゃんと使えてないんだと。
送る側も受ける側も。
目の前にあって動いているから、使えているように思っているだけで、”使って”いるだけで”使えて”はいないんだと。
地球の裏側の事を知ったとして、どうすればいいのか?
例えば、なにか貿易の仕事していて、その裏側の天候なんかを知る事を利益に繋げる事ができるならば、その情報はその人にとっては、何にも関係が無い人にとってより、価値がある情報になる。
だけども、その地球の裏側の天気の情報で利益を上げることに思いが及ばない人から見れば、その貿易業の人は、「なんだかわからない情報」で利益を出した人間、無から有を得るという事に。

と言うのが、小松和夫氏著の「憑霊信仰論」の一説含めて思いついたことで、この著書では、閉鎖的なムラの中で細々と循環し、さほど起伏を見せなかった貧富の差が、段々都市型の商業スタイルが流入してくるに従い、それまでにはなかったような、例えば町で大根が不足した場合、ムラで安かった大根が町で高く売れ儲ける、ようなケースが出て、そのシステムに順応した者が一気に富む状況が生まれ、そのシステムを理解できない者達が、急に富んだ者を「憑き物筋」とみなしたという節を論じています。
「憑き物落とし」はお祭りであり、ハレの場であります。
祭事とは、現世的な価値を無視しひっくり返す場所であります。

では、この「俄か大根長者」に憑いた落とすべき「憑き物」とはなにか?
それは、噂をした、噂を信じた村人たちが理解できない方法で得た利益か、それに代替するもの、行為であると。
つまり、高いお金を払って祈祷師を招き(これは恥でもある)、村人にごちそうを振舞って(利益の配分)、適当な理由(これが落とす作法であり祈祷師の腕の見せ所)を頂くのである。
これってイジメじゃん!って思わなくもないですが、その理由であるところの狐憑きやらを本気で信じている以上、殺されるだのになるよりは、柔らかい着地点なんですよ。
この辺は「悪魔祓い」上田紀行氏著を読んで下さい。
お祭りの意義については古典の「金枝篇」でも可。
その辺の人間の心情は今も昔も大差ないと思し召せ。

ムラとは我々であるところの中流である庶民であり国民。
と、この前のとここで繋がります。

さて、じゃ僕たちはなぜ魔法使いでアルジャーノンだったらしいのか?
人類の歴史上、ここまで情報が支配的な社会はなかなかないんじゃないかと。
錬金術や魔法が知識と言う情報の集合体であったとして、今我々が触れられる、晒される情報の量は、その比では無いくらいに膨大である。
豊かであるといえば、単純にそうだろう。
向学心溢れる昔の学者さんなんかが、今の時代に来たらば卒倒するような手軽さで、最高レベルの知識にも触れられる。

そう、全てが”可能”の世界。

膨大な情報に触れている晒されているからといって、それを有効活用できているかというと、自身も含めて甚だ疑問だ。
というか、全てを有効になど活用しかねるくらいの、種類なり量なりの膨大さに溢れている。
だからこそ、新しい組み合わせの技術も生まれたりするのだが、圧倒されるのが大半だろう。
だが圧倒されるには、その量と種類に溺れかねないと云うことを、認識しなければ圧倒できない。
取捨選択するにも量が膨大で、目の前には世界全部の情報が並んでいる、ように思える。
けれども、これだけの量と種類があったとしても、この世界の全てではないのだ。
どんなにペン先を小さくしても真円が描けぬように。

世界は認識の限界で形作られる。

日本人が、なんとなくアメリカ以外の外国よりも上だという意識を持っちゃうのは、GNPが世界二位だとかいう情報からで、それも日本人の世界の見方を作る一つの因子。
なんにせよ世界で二番目なんだから…って、個人レベルじゃ関係ないんだけどね。
ただ、自己のイメージの中に、世界二位の国民ってのだけはしっかり反映されて、その分肥大化してしまうわけです。
個人対個人ならば、まあだいたい対等なのに、GNP二位の国民某対GNP何位の国某と。
自分が優位になるジャンルのラベル見つけてきて、自分の一部として使うわけです。
とても便利な魔法です。
で、その魔法の素となる情報はもう巷に溢れかえってます。
ただ、魔法には副作用がばっちりありまして、ラベルに頼りすぎて、ラベルと自分との境目がわからなくなったり、それの価値がなくなってくると、本体がどこ行ったかわからなくなるんですな。


最近見かける社長さんとかの謝罪会見、あれを見ればなんとなくわかります。
最初軽口を叩きながら笑いながら話します。
なぜか?
それはマスコミは自分たち受け手があってこそであり、自分達の一部であると誤解しているから。
だから自分が軽い事だと認識していて、そのことを話せばマスコミも「なんだ軽いことなんすね」と云ってくれるとでも思っている。
自分はあくまで受け手であり、自ら望まぬ限り何かを送る立場にはならないと、これまた誤解しているから。
それに彼らも自分の一部であるから、触れられたく無い部分だから触れるな、プライバシーの問題だとでも云えば引き下がると思っているのだろう。
そして、それでも引き下がらないマスコミに対峙して初めて、マスコミは自分とは他者であると認識する。
けれども、まだ、自分の意見は主流であり、自分と他の受け手の間では通じるものだと思い込む。
自分を受け入れないマスコミ”だけ”が異物なのだと。
だから、なんだそりゃ?な言い訳を繰り出す訳で。
どっかのお医者の風呂が無い発言は最たるもの。
あの社長さんたちは、マスコミも他の人たちも、自分の理屈を理解すると信じて疑わないのだ、なぜか。
大概ワンマンだったりする。
そりゃ、会社の中では通るけど、一応は他人の意見も受け入れると云う態度を示し、自分は決して偏屈で狭量なワンマンではないとしたい。
社員から反論がないのは、ただ単に自分の方針が優れているからだと、誤解してしまう。
云えない状況を作っておいて、云わない事を正しさの根拠にする手法は、あちこち見かけるので、巷に観察に出てみましょう。

自己と他人との未分化は、幼児期に見られるもので、子供は自分が知らないものは誰もが知らないものだと思うと同時に、自分が知っているものは誰もが知っていると思っている。
そして、なんとかレンジャーは実際にいるし悪い集団も本気で世界を狙っている信じている。
子供だからしょうがない、と笑える状況だろうか?

前述の社長さん連中は確実に自己と他者の未分化の一端を示しているし、映画スターが役柄と程遠い人物であると知ると我々は裏切られた気になる。
ただし、社長さん連中も我々も自分たちは他者への認識が未熟であるとは思っていない、思えていないのではないだろうか?
そこが落とし穴のような気がする。
自らが未熟であると知っていれば、自らの非を認められるが、それが無い場合、他者にその責を見つけようとしないだろうか?
俄か大根長者を憑き物筋とした村人のように。
社長さんたちはこう云う、もったいないじゃないか?あんたらだって同じ立場だったら同じようなことしただろうに。
映画スターに我々はこう思う。
我々ファンはアナタのあの演技に感動してお金を出して応援しているのだから、それで生活しているアナタは、その我々の意を汲んである程度は役柄のイメージを壊さぬような振る舞いをファンである我々の前ではするべきだと。

全てはイメージの産物である。
イメージは言葉や映像、音楽などの情報によって想起される場合が多い。
その情報は世界を形作る魔法でもある。
社長さんのイメージは、マスコミや他人も、会社の人間と同じように自分の意見を聞いてくれるはずだというイメージ。
映画スターには、まさにイメージそのものを重ねる。
そのイメージを想起させる情報の渦に僕たちは急に投げ出される。
脳手術でいきなりIQを上げられたアルジャーノンのように。
自我を持った瞬間に、様々な情報で作られたイメージが飛び込んでくる。
その魔法をどう受け取れば良いのか、使えば良いのか誰も教えてくれはしない。
ただ反応として様々なイメージが纏わりついて知らない間に自分の一部になっている。
知らない間に自分の一部になったものだから、よそ者だと気付いてもどこから剥がして良いのかわからない。
それは、世界と自分の境目が混濁する事でもある。
そこで思うのだ、本当の自分はどこに?と。

意識的に獲得された自己のペルソナならば、自己内で対話出来得る。お前の役割はどこそこなのだと。
しかし、纏わりついたイメージの先にいるのは自分でありながら、いつの間にか存在した自分なのだ。
それが少ないのであれば、自分で考えればなんとなく思い当たる節が出てくるものなのかもしれないが、今日纏わりつくイメージの数は膨大で込み入っている。
不必要な自己イメージならば、捨ててしまえばいい。
例えば”昔悪だった”なんて風に振舞う俺ってカッコイイと思う自己イメージは取っておいても無駄なので早急に捨てましょう。
こんな判断しやすいものばかりならば苦労はしないのだが。
しかも、自分には要らないと思っても、他人から好評を博すような自己イメージもあるから性質が悪い。
つまりは、こんな自分が嫌いなんだけど、みんなはそこを褒めてくれる方式。
その反対もあり、俺の個性をミンナは否定する方式。

じゃ、どうすればいいの?と云うお話ですが。
これで解決!あとは本当の自分だけで生きて行けるぜ!!
本当の自分で生きるって楽しいぜ!
というポイントは全体的には無いと思われます。
つまり個別にはあると。
というか個別にしかないと。
一気に全ての悩みが解決!
なんてインチキなこと信じてはいけません。

他者から見た自分のイメージを受け入れてみる。
良くても悪くてもね。
自分で想定した客観視点はやはりどこか自分寄り。
だから、絶対的な他人。
本当に大事だからきつい事も言い合う。
そういうのって、親友やん。
的な。
ふざけてるけど、そういうもんです。
親友じゃなく単なる敵でも、他人であるならばその意見には価値がある。
つまり、自分が何者であるかを教えてくれるのは、自分以外の他者全てである。
ゆえに、誰も殺しちゃいかんのよ。

ところが、最近では敵でもない他人。
全く関わらない他者の存在が多い。
と云うよりは、全く関わらない他者の存在を知る機会が増えたというべきか。
それが、情報過多の弊害であったりします。やっぱり。
結果、友達は大事と云う、とてつもなく凡庸な長いお話でした。

posted by れもら乃輔 at 05:41| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記
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